liquid universe

「Je veux dormir pour toujours.」

7

ネガティブをポジティブに変えるべき?
自信を持って、前向きに、って正解のように勧められるけど
イマイチそのまんま受け取って実行、にはならない。

悪いところ、を良い表現、に転換すれば良いって考え方、なんかしっくりこない。
肯定感のため、前進するため、フォローのために言っているのはわかってる。
短所は長所の過不足っていうけど、捏ねすぎると屁理屈になりそう。
決定に時間がかかる=慎重なんですね!...って
んなわけあるかい!って言いたくなる。
時間がかかっているからって、慎重に吟味できているとは限らない。
これの裏返しがこうよ、言い換えればこうよ、こういうと悪いことのようだけどこういう風に言えばいいことっぽいよね、と説明されても、
そうそうその通り、と思わないことが多い私。
これはマイナスだから、プラス風に変えようね、それが正解だよ、と諭されても、
果たしてそのマイナスは、本当に不正解なの?悪いことなの?と疑ってかかる私。

見方を変えるってことだと思っている。
視点を変えると、新たな発見があったり、先に進めたり、刺激になるよって意味だよね。
立場を変えれば、善は悪に、悪は善に、なり得る、って話だよね。
マイナスイメージを、言い回しや意味のすり替えで、これで良しとするのは、どっかで限界があるし矛盾も感じる。
ラベリングされたものを大多数の評価に合わせて差し替えるのではなく、それそのものを、ラベルごと、肯定する言葉が、名前が、あったらいいのに。
何もかも生まれ変わって別物に、じゃなく、そのまんまが良し、とされればいいのに。
もちろん、明らかな“悪”を正当化するための名称をくれ、と言ってるわけではない。
私は昔から、納得を欲しがっている。それは極端なほどに。
世の中そんなに白黒つかないということはわかっていて、それは美しいことだと思う。
それでも欲求のひとつが、はっきりしてほしいと叫ぶ。
自分の良いところであり嫌いなところ。

6

前々から、話をまとめるの下手だったけど、
いろいろ再開して、ますます文章書くの下手になった気がする。

まず語彙力少なすぎ。
文の繋ぎ方拙すぎ。
綺麗に綴ろうとは思わず(どうせ綺麗には書けないのだから)、思いつくままに吐き出そう、それが自分のスタイルだ、って思ってやってきたものの、さすがに散文すぎ。
言葉を綴るのが好きだ。人の文章を読むのも好きだし、好みの言葉を集める行為が楽しみ。
なのにやりすぎると段々とただの作業になりがち。
何度、何を、何処で書いても、自分の文章はいつみても汚い、と感じる。
その行為自体が何かの発散方法、であるはずなのに、出来上がっていくものはどれも他愛もなくくだらなくつまらないものだ、などと、勝手に価値を求めて落胆している。無意味。
目的の向こうに何かを欲しがっている、とは、そんなに強欲だったかな自分。

ただの日記帳でいいじゃない、と
もう何度も言われている。書きなぐるなら、吐き出したいだけなら。
塗り絵でもいいじゃない、とも。
でなければ、どうして、こういう公開された場所を選ぶのか。
TwitterInstagramも、惰性でやっている感も否めない。
とりあえず繋がっていたいというキモチ?一方的な視線を送っていたいだけ、とか。

どれもある。どっちもある。口癖かってくらい、昔から呟いてきたこと。
人に見られたくない知られたくない隠していたい。
でも、人に見られたい知ってほしい遠くから関わってほしい。
自分にとって大切な自分を誰にも知られちゃダメだよ!という自分
誰かに知られて見られてこその自分だよもっと存在を認められたいでしょ?という自分
どこもかしこも自己愛に溢れて、自身を守り、人にも可愛がられるべきという自分
そこまで強いナルシズムだからこそ、他者愛を学び早くこの内側世界から脱するべきという自分

所詮は承認欲求を満たすためかもしれない。
それが例え汚い様子でも、きっとやっていく。
上手じゃないと言いながら、文句も軽蔑も嘲笑もカモンと言いながら、
内心びくびく怯えながら、自分自身の納得する着地点も見えないまま、
恐らくまだ、こういう場所を選んで、駄文を連ねていく。
精神壊すまではやれないし、そんなおおごとにはならない。
下手なりにひっそりとやってくことになるだろうと思う。


今はストーリーばかりのインスタですが、あれはあれでなかなか有効だと思っている。
むくむくと、“ちゃんとやりたい”って気持ちが芽生えたりするけど、じゃあ“ちゃんと”って一体なんだ、っていう。
Twitterはたくさんフォローしてなかなか呟かない。
それこそ出力は↑ストーリーで済んでいて、もっぱら入力専用になりそうな予感。
フォローを追加していくことが、自己紹介だなって思う。
私は、こういう人間が、こういう物が、こういう思考が、こういう方向性が、好きなんですよーって感じで。
つまり、他者を利用して自分の嗜好を説明してるってことか。
でもいちいち私はこれこれこういう人間で~こういうのが好きで~って概念とかで説明されるよりはわかりやすい気がしない?
もちろん厳密にいえば違うところもあるけど。
それはその都度否定する感じで。そこまで労力割くほどの話題でもなければ全力否定もしないし。

今回の話、興味があれば掘り下げてくださいってレベルの内容だった。
でも改めて思うのは、こんな偉そうにべらべら語っといて、
自分の中身、ほんと語彙も知識も少ない。
てことで、これから先、本を読もうと決意した。
読んでそうに見られることが多いんだけど、真逆の人間だよ。
そういうギャップは有り難くないんで、うん、がんばる。

5

“どうしてそういう子になっちゃったんだろう”
そういう、とは、ワガママで、学校に行きたがらなくて、体力がなくて、お喋り好きだけど、小心者で度胸がなくて、好きなことだけして、自由で、ひきこもりで、そういうのを恥とも思ってなければ後悔もしていない、ってところ。
つまりは、この私のことです。
どうして、というのはもはや疑問ではなく、残念、に近い、諦めのようなニュアンスで。
当時の荒れてた自分を(いろいろ語弊がありそうですが)(グレてたとは違う)、なんとかしよう、なんとかしなければ、という必死さ
反して好きなだけ怠惰を貫き、今現在もさして反省の色が見えないどころか開き直ってるかのような姿に対する、呆れ
そういうものからくる母のつぶやきです。

愛がないとは思わない。
がっかりする気持ちもわからんではない。
たぶん、とても、“普通”を望んでいて、それを尽くぶち壊してくる我が子に、親として、腹立たしく悔しく思っていただろう。
大人になった今も、のらりくらりしていて、目下就活がうまくいかない様子を、やきもきしながら見ていると思う。
今まで困ってきたこと、今こんなに苦労しているのは、過去が順当?にいっていないからじゃないかと。
それは自分たちの育て方が、とか、自分由来の性格が、とか、考えすぎたりもしてるんだろうけど。

正直、私もわからん。そんなことは。
目に見えるカラダのことに関しては、運動してきてないからやとか、運動音痴は遺伝やとか、説明は付けられるけれど。
どうしてそう思うの?どうしてそんな考え方なの?と訊かれても
そう思っちゃうんだからしょーがないじゃん?としか言えない。
「そりゃそうだよね、自分でもわかんないよねぇ」って同調してくれて、そんなこと訊かれるの?って逆に疑ってる人もいたけど
ぃやぃや、これがまた、出会って仲良くなったら訊いてくる人、結構多い気がするよ。
どうして、そんな風におもっちゃうの?そんな考えもってるなんてどんなにか辛いことがあったの?って。

私は至って平凡な家に生まれて、決して裕福ではないけど、いうて見窄らしいほど貧乏でもない、
両親ともども健在で、姉妹がいて、それなりに学校には通えて、成績も最下位は恐らく無い、
衝撃的な事件や事故にも見舞われず、友達もいて、恋もして、時間を割ける趣味もあって、
本当に、普通の、人生なの。
だから、何かのトラウマとかで、性格ねじ曲がってる、ってわけじゃない。
それでも、この考え方なの。
おかげで、他人からは変わってるって言われたり、友達からは、それは個性との褒め言葉、
家族には、それはちょっと常識はずれよ~なんて、冗談めかして言われたり。

社会や学校、他人に対する考え方は、人それぞれ。
それは自分も、親も、友達も、わかってはいるはず。
それでも、私が“落ち込んでるはず”の時に平気そうに見えたり、後悔しそうな場合にケロっとしているのを見て、やはり常識や普通と“ズレてる”と感じるらしい。
本当はこう思っていてほしいのに、“普通”でいてほしいのに、捉え方がなんとなく違う、感情の向きが違うのは“なんか変”と思ったりする親心。

実は昔の方が、わりと傷つく言葉をさらっと言われたような気がする。
今はお互いに、というかみんな年をとり、許容範囲が広がったのかもしれない。
それでも、“なんでこんなんなっちゃったかなー”と、育ってしまった私を見て言う。
そう言われましても~って感じだけど。

思ってしまうこと、感じることの理由は説明できない。
それを表に出すか出さないかは選べるけれど。
思わず溢れてしまうことが悪い癖なら直さなきゃならないし、
何を考えてるか全く表現しないなら、この先どういう未来が待っているんだろう。わからない。
共感されなくてもいい、否定されなければ。
否定されてもいい、共感してくれる人がどこかにいれば。
孤立した肯定は、どうやって存在し続けられるんだろう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

余談。

一人称をとりあえず私に。
親の前で、名前以外で一番使っているであろうから。
断定することは違和感もあるけど、素の状態の呼び名を決めてしまったほうが、楽、かもしれないと思ったから。

4

前回の続きっぽいことかも。

以前にも増して、自分とはという問に対して、曖昧に、濁しにかかる自分がいる。
前提として、いろんな所いろんな立ち位置に自分がいて、それぞれが好き放題しゃべっている、その状態を“自分”としている
ってのが子供の頃からのなんとなくの概念。(語彙力なくてたぶん伝わらんけど、別にいいや。)
あくまで己のそういう感覚、において、またもやもやもや考えるって話。

性格が、性別が、外見が、好みが、どんなものかということを、
ゆる~く、ぼや~っと、曖昧~に捉えたがっている。
皆もそうかも、そんなもんかも、とは思っているんだよ。
一貫して明るい性格なんて存在するのかな、とか、性自認や嗜好が定まってない人たくさんいるんだろうな、とか。
不変を信じてはいないので、人間、当たり前に日々しぬまで何かしら変化していくものだとは思うのだけど。
そうそう変わるもんでもない部分と変わり続ける部分とがあるでしょ。
その境目も曖昧で、自認しているものがいろいろと不安定でゆらゆら。
自分だけ、とは思わないけど、最近の自身の思案について、少し気になるところではある。

分けることが苦手、ということかもしれない。
メジャーかマイナー、常識非常識で図らずも分けてしまうとき
性差や科学的根拠や目の前の瞬間的事実で、そこは越えられないと実感するとき
ものごとをより複雑に感じ、個や集団について迷い悩んでしまう。

定義を求められると不安に感じる。
何かしら、区別分別して考えなければならない
なのに線引きやグループ分けを極端に嫌がる場合がある。
そこに当然矛盾はある。
自身も周りもそんなつもりはないのに、優劣や勝ち負けのように扱われていると感じて、もやもやしたり。

前提として話した“自分”でいうと、
例えばひとつの事柄に対しての考え方の違いで、自分A、自分B、C...D...と複数存在している気でいる。それらまとめて自分であると、普段はそのまま、気にも留めていない。
が、唐突に己が当てはまる枠の中に入るべき、とされたとき、どうしたらよいのかわからず右往左往してしまう。
だって、AもBもCもDも、自分、なんだもん.....。
当てはまる全ての枠に入ることを希望するも、己は唯一、分身できないから不可とされ、結果どこにも収まらず、そもそもを達成することができない。

こういう場合の、不確定が、不透明さが、悪いとは全く思わない。
だからこそ、曖昧を選びたいのかもしれない。
何故、今?何故、強く?とは自分でも突っ込みたいところなんだけど。

性別や定型不定型からくる“らしさ”や“○○っぽさ”、選択肢の種類について、
少し敏感になっているのは、最近の興味と、自分の生理現象からかと。
あれ、自分の“本当の好き”ってこれじゃないのかも?って考え始めたり、このカラダ嫌いだーって毎日思ったり。
今の性や個の質を好きになれないからと、異なるものにチェンジしたところで、自己肯定感の低さはたぶん変わらない。
生物学上の区別や誰かの作り上げた“らしさ”、他者とのギャップにも囚われず、
かわいい かっこいい うつくしい を体感したいし体現したいものだね できるなら
本質、個そのものの本来の魅力、というのかな。
感情のプラスマイナスや、美しさ格好良さなどの感覚を、そういう“差”以外のところから、得たいという欲求がある。

区別は曖昧に、個は明確に、とは、これも理想論かな。
自分にも他人にも、求めてしまっていると、単なるワガママ、かもしれない。

3

このまま、
ここは自分のもやもやを書き綴る場所になって行きそうだなー。
初めに、誰かの為になんて書けない、と言った通り
これによってデトックスやリラックスが叶っているかというと
断言はできないんだけど。

雑音が雑音以上の力を持ち、自分のコントロールを失いそうになると、ひとりになりたくなる。
全くの孤独にはなれないから、誰かの声に影響されながら、良いも悪いもゆらゆらする。
他人の何気ない言葉が、考え始めるきっかけになることがほとんど。

近頃のむにゃもや。
メディアで取り上げられることや当事者が声を挙げることが増えた気がするし
自分が内側で考えていることを、そういうものと照らし合わせる機会も、もしかしたら増えてきたのかもしれない。
LGBTQのこと。精神疾患のこと。発達障害のこと。とか。

人間とは、性とは、精神とは、自分とは、と昔からたびたび考えていたと思う。
と、同時に、深く考えないようにしよう、と努めていた、とも思う。
単純に、疲れるから、不毛だから、明確な答えが出せないから、そこまでの知識が無いから、欲求が続かないから、とかって。
(そういう理由、というわけではないが、子供の頃からわりと悶々と考える癖があって、同級生たちとの距離の取り方に迷っていた。自分の考えていることが共有しにくそうに見えると口を噤んだし、みんなといる時はそういうことを考えないでおくことも学んだ。うちでひとりで考えたり、ネット上の会ったことない仲間?に吐き出したり、というのは、その頃に始まり今に続いている。)
何かについて考える、というのは、別に何か解決法を求めて、ということじゃない。
むしろ考えている過程そのものが癖なのであって、結論に辿り着く快感を、実はそんなに知らない。

先に挙げた言葉そのものが、自分がそれらを知った当時より今、マイナーからメジャー、ざっくりいうと身近になりつつあるのかな、と感じる。
実際に世に広く知れ渡ったのか、自分が経年するに従って、経験と感度の中で、そう感じているだけなのか、は、わからない。

それぞれの事象を、問題、と捉えるのは好まない。
無意識の中に、日常の中に、当たり前の自由の中に、在るのがきっと理想。
だけど理想を前ににこやかに、朗らかに、前向きにいられないのが自分。ひねくれてるね。
だからたぶんずっと考える。考え続ける。飽きることなく。不毛なまま。何も片付かないまま。
それだけといえばそれだけだから、なぁんにも、社会の役にも立たないし、誰かに何かに影響与えるでもない。
自分にとってのもやもやって、きっとそれだけのことで、結局自分のためにだけやっている、考えるという自分勝手だ。

そういえば、ココもただの自分勝手だった。
子供の頃からの、思考という作業の延長線上にあるココ。
まだ、続けられそうだね。

2

いつまでも迷っていることのひとつに
自らの一人称、がある。

社会人として性別立場関係なく、“わたくし”という機会が増えている自分。
就職活動を経て、言い慣れてない感が少しは取れてきたかな?とも思う。
日本語としての響きも好きよ。四文字で、落ち着いた感じもあるし。
もちろんTPOとか大事にしましょうという教育の中にいるので、
場面ごとに使い分けているつもりではあるけれど。

今迷ってるって言ってるのは、ココとか仲間内とか、というプライベート空間での話。
自分を指す言葉がなんであろうが、他人にはさして重要ではなく、
なんだったら「自分の好きにすれば」の一言で終わる、もうどーでもいい話ナンデスガ。

何を使ってみても、どーも違和感。
このモヤっと感は、なんなのでしょう?
ずっと使い続けても、なんかちょっと、引っかかる...みたいな。
詞や物語において、その内容から、私や僕・あなたや君を使い分けることはあります。
自分の生活の中にも、男の子っぽくしてみようとか、女性視点の物言いだなとかって、日々己を表す感覚が変わるように。
呼称は表現の一部であって、それでその人の本質が変わったり消えたりすることはないけれど
ニュアンスや、見えないものを見える気がするように、また見えてるものを見えなくするように、効果として、
こっそり、だけど確かに、必要な部分を担っているのかな、とも思います。

他人から見て(読んで)。
“あたし”“わたし”と言い続けても、女性としての存在を認めて、何の違和感もなく受け入れられるでしょう。
“僕”“わし”と言い出しても、表現上のチョイスだとして、別に気にも留まらなそう。
(もしくはちょっとイタイと思われるか...)
結局、他人には至極ど~でもいいことであるに違いないので、
自分が納得するかどうかの、話なのです。えぇ、くだらない。←

ああ、どこに向かっていくのかな。
こんな迷いはほんの些細なことで、考えなくても時間は経つし、
リミットは近付いてくるし、もっとやるべきことが他にある。

1

おはよう。
こんにちは。
こんばんは。

また会いました。
はじめまして。

春、からRestartのつもりだった。
でも、書けなくて。
言いたいこと、書きたいことがなかったわけじゃない。
なんとなく、筆が重かった。

自分の心を見つめなおすとき、こうやって文字にするのが自分に向いてるって
ずっと思ってきたのに、どうして更新できないのか。
吐き出してなんぼだと言ってきたのに、
言葉がでてこなくて、鬱々として、自己嫌悪して、また何も動けなくて。

できなかった・できないと言い続けても
自分も世界も何も変化しないし、それはそれで収まっていくとは思うけど、
挑んではみます。

SNSに元々向いてないのかも。
でもTwitterInstagramもあるので、もう少しだけ関わってみます。
夏、いろいろリセットして、動いてみるね。

ほんと、自虐ネタではなく、事実として、
己の自分語りって、しょーーーーもないと思う。
この面白くない人格の面白くない人生の端っこを、切って貼って何がしたいんだろうって思うけど
ネットならではの嫌な思いもしてるし、別に強制でもないのに何を焦ってるんだって見えるけど
しょーーーーがないと思うこればっかりは。
きっとこうやってうだうだ言い訳することも、長い文章お堅い言葉でずるずる綴るのも、
自分の衝動だし、療法だし、自然なんだろう。
承認欲求もやめるやめる詐欺もマイペースも、もう言われ慣れてるわかってる。
現実世界が揺らぐたび、自分の集中力は途切れ、ざっくりとした変化を求める。

リセット癖の言い訳。
ひとつは、ただ単に衝動。もうひとつは、過去と現在を切り離したい、別物で合ってほしいという願望。
もちろん、事実をなかったことにはできないし、それは理解してるんだけど
自分の産物や他者との関係は、永続的に繋がってほしいかというと、必ずしも”全部”というわけではない。
あくまでフリに過ぎないけれど、瞬間的0、もしくはそれに近い状態を探してる。

エンターテインメント性のない日常とか
何もPRするところない性格とか
誰かをHappyにするスキルは持ち合わせてないところとか
ここで何かする意味、、、って毎度思うけど
黙っていても喋っても時間は消費しちゃうから、なるべく
追われることが苦しくならないように
追うことで息止まらないように
もっとちゃんと思いながら、やってくことにする。

ここまで読んでくれてありがとう。
せめて、できる限りは、誰かを不幸にするような行動は避けたいのだけれど
自分の産物や自分自身と出会って、後悔してほしくはないのだけれど
それすらも、先々はわからないから。
誰かの為には、きっと書けません。誰かの為に、やめるのも、もしかしたら、あるいは。
実はとっても自己中心的です。

こんなことしか言えないけれど、
またお目にかかれたら、きっときっと嬉しいです。


余談;
名前をころころ変えるのも癖のひとつ。
ほんとうはどうだっていいのです。呼び名だって、ほんと、なんでも。
あと一人称に迷ってます、えぇ、もう長らく。
どうしようかなぁ。