liquid universe

「Je veux dormir pour toujours.」

17

 

偶然ばかりなのに、臨機応変にはなかなか成れない、日常。

必然であればいいなぁと思う出逢いもある。

 

理解者、であるのかは、わからない。でも、聞く耳をもっているという人物は、それだけでもきっと貴重だ。

あたしがあの人に与えてあげられたものなどあるだろうか。ずっと、何も、為になっていない気がする。

だけど、あの人があたしにくれたものはいくつもある。10年前も、今回も。

 

あたしが感じている....“違和感”みたいなものに、あたしの目を向けさせてくれた。

気付かせた、というより、気付いていたものをまじまじと見るように仕向けた、という感じ。

だからどう、ということはない。それだけのこと。“在る”という認識。

 

溜まり続けるダムのような感情を放出に導いてくれるのは、いつだって無自覚な一言だ。

状態でいえば、友達だと思う。(これはあたしの希望も入ってる。)でもそれとは違う他の何か、あたしの人生ロールにおいて何かしらの配役をつけようとしている。

例えば観察者。指標も目的も示さないけど、振り子のように揺れるあたしのバランスをずっと見守っていて欲しい人。

会っている時間が短ければ、回数によっては、緊張もする。

でも、あんなに楽に呼吸ができるのは、何故だろう。

 

ありがとうとよろしくを伝えたい。

あたしはこんだけお喋りなのに、言葉をうまく伝えられなくて、

器用で、不器用で、おわかりの通り、難があるけど、

あたしはまたひとつあたしを知ることができて良かったと思う。

これが他人と過ごす醍醐味だと思う。

ひとりが極力好きだけど、また会いたいって思う気持ちは確かに在るんだ。

 

人と、生きているなぁと思った。

面倒なことは多々あるけども。

ひとりでもできなかった深呼吸が、できる数分間があった。

 

 

16

息苦しくなるね。

自分以外の声が知りたくて、誰かとお喋りしたくて、繋がりが嬉しくて、

でも人混みが嫌いで、干渉されたくなくて、ひとりで居たくて

 

あたしは愛されたがりかもしれない。

でも誰かの世界に連れ込まれて、そこの住人になりたいわけじゃないの。

自由に生きる、求める って、そうであったらいいと思うの、他人も自分も。

だけどそれ故に他人を律したり強制したり過干渉になったり過敏になったりするのが、難しい。

 

“しなければならない”ということがどれだけあるのか、あたしはまだよく知らない。

“するべきだ”と自分が思っても、他人が思っても、覆されることが多い気もする。

人間として当たり前のこと も、自分がどれだけ達成しているのか、自分がどれほど人間らしいのか、実はずっとわからないままなんだ。

 

正しいことを言っている、素晴らしい行いである、でも素敵ではない、と思ってしまう自分。

間違った思想である、マイナスな結果しか生まれない、でも真実である気がする、と放るのを拒む自分。

 

何もかも一期一会だと言って、忘却していくことも、身軽。

狭く深いやりとりの中に、延々と残る小さな点を打つ、それもシンプル。

 

持てる時間も行動も、有限なの。

だから、重なることもすれ違うことも、同じくらいの重さで感じていたいのに。

パーセンテージがいつも100%越えやマイナスなら、いっそ曖昧なモノサシで構わないのに。

 

あたしが誰でもどれでも選べるように、

他人も多様な中から選べる。

あたしでも自身でも他の誰かでもなんでもよくて、

その中の一部でも全部でも零でもいい。

わかっている。その広さも薄さも重大さもわかってるよ。

だから片眼を閉じたりしている。

 

15

書きたいのに書けない なんて、言い訳にもならない。

時間の問題なんて何一つない。

書けないんじゃない、書かないだけ。

言いたいのに、言ってないだけ。

思いつくことは色々時々あるけど、メモとる癖がないから、すぐ忘れちゃう。

覚えておけないことは、それほど大したことじゃなかったのかもって

思い出すことも諦めてしまう。

 

だけどどうしようもなくなった時、

思いついて、書いて、それで解決したことなんてないんだけれど、

どこかでほっとしている、そういうとこもある自分を知っているから

吐き出すことが、意識をずらす方法でもあるから

 

1ヶ月黙っているなら、

それはその間に何事もなかったのではなくて

毎日本当に、人並みより怠惰に、繰り返しの日々を過ごしていて、

その間の微かな刺激にも、思うことがあったり、書きたい衝動が生まれたりしていた。

でもそれらを超えるほど、億劫な気持ちがあったってことだ。

 

ただの備忘録なのに。

吐き出したいこと吐いて、楽に呼吸するための衝動なのに。

誰かの為に書くものでは決してないのに。

とても自分本位で、自分勝手。

それでもInternetに棲まうのは、何故 と自問自答の場所でもあるのに。

 

誰かに見られるかもっていう意識を自律のために使う。

どのSNSも、他人に見られている関わり合いが出来てしまうという意識のもとで。

だからこそここで書いている。

でも、それを拒絶する自分も、確かにいる。ワガママでビビリで嫉妬深くて飽きっぽくて。

誰かに見られる前提、または見て欲しい・反応が欲しい前提で、何かを書くことが、単純に「やだなぁ」と思って、途端に何もできなくなる。

頑張ってSNSを辞めようとか、デジタルデトックスしたいとか、そういうことじゃないんだ。

無意識に、自分を縛ったり緩めたりしている。

その力加減がいつまでたってもわからないまま。

 

どこもかしこも、今現在満足しているかというと、どれもバツだ。

機能とか方向性ということではなく、自分の気持ちの問題。

自分の利用状況に納得いっているか、ということである。

(もう、そんなの、Internet界隈に限らず、現実世界もそうなんだけど。現状に満足しているか とは、恐ろしくありふれていて、あたしみたいなひねくれ者にはポジティブの強要にも感じる質問なのだ。)

 

「もっと〇〇したい」とは思うことがあるらしい、自分。

でもそれに追随するほどの気力のない大元の自分は、小さく伸びた枝葉も、新しくも毒々しい芽も、削ぎ取ってきたのかもしれない。

それならばいっそ、究極にシンプルになればいいのに。

そうじゃないのね、この中途半端な自意識は。

 

 

14

壊れた、と思った。

壊された、とも。

 

こういう時、あたしは本当に“信じる”ということ自体を信じられなくなる。

その意味とは、価値とは、目的とは、結果とは、

なんて、巡らせては、削られてく。

 

人間的におかしいことしてる って、

それがそもそもおかしい人間 だったら、

最終的に許されるの?

許すことなく失うものなの?

 

ありえない、と言い切れない哀しさ

何度味わえばいいの

改心なんて、本当は無いんじゃないの、

記憶を失っても、心は未だそこにある

きっと、ほとんど、同じ形で

だから、いつまでも“繰り返す”ことに怯えてる。

薄れても、決して消えない記憶に怯えたままでいる。

 

ひとりぼっちで泣いた。

前に怒りで声が震えたときは、結局誰かの同調を求めて、吐き出して、最後はなんとか笑えて。

でも今回は、誰にも訴えられる内容がなかった。

あたしですら見えないものを、他の誰かに見せてあげることはできない。

傷つけまいと思ってくれてる人に、強がるのは、親しき仲にも礼儀あり だと思ったの。

知っても不幸だし、知らなくても不幸、なら、真実を欲しがったら?...そういうこと。

あの人もその人も正しい。

だから、どれもこれも悲しいんだよ。

 

ひとりで、ぐずぐず泣いて。

でも、会ったときには、何も言わないでおこうと、笑って。

でも、やっぱり苦しくて、無理で。

 

結局いつも通り、あたしが“不安”と名付けるものは、ただの妄想かもしれないけど

こんなに何度も“火のないところに煙はたたぬ”という言葉を実感する日々もどうかと思う。

でも実際、火も風もなくても煙る(ように見える)という状況も知ってるから、

今はただ、ソレが本当にゼロで、取り越し苦労で、妄想は薄まってゆく ということを祈るばかり。

 

13

いつも相反している。

すべてが終わればいい って
延々と続いて欲しい って
いつも同時に思ってる。

普通の生活が送りたい って
特別で刺激的な日々を過ごしたい って
交互に断続的に思ってる。

笑える。
笑えない。
歌える。
歌えない。

できないからする、とも限らないし、
できるからしない、わけでもない。

眠たいし、ずぅっと眠ってたいし、
真夜中からずっと起きていたいし、起きてあらゆる音を聞いてたい。

天邪鬼とも素直ともいえる。

それぞれ違う方を向くベクトル、が交わったところで
むりやり深呼吸したり、息を止めたり、

一方で、満足している、納得もしている。
ももう一方で、不満なんだろう、「よし」とも言えない。

有りか無しか、じゃないとわかってるよ。
0と1しか、みてないわけじゃない。
all or nothingと信じていたらこうしていない。

対立してるのに、共存してる、考えてる。

12

あたしは、本当に、放っておいてほしい。
限られた時間を、どう使うか、自分勝手なんでしょう?
関わりたい人と関わるし、
好きでい続けたいなら、記憶のある限り、そうあり続ける。
ひとをコントロールすることはできないから、
せめて、自分を、こうするんです。

文字の向こう側を、汲み取れないやつ多すぎる。
、でも、自分もそうかもしれない。
過去は過去、だからって全部水に流しておしまい?
その続きの今でしょ、判るから忌々しい。

ともかくも、知らない故の怖さ、見えない故の拒絶はある。
興味は、単純に、欲しいそれ欲しいという、思いだけ。

過去・現在と、リンクしようとするのは勝手です。
でも1秒後の未来と、どうさせるかは、あたしが選びます。
それは誰しも、己の取り分においては同じ、平等なはず、たぶん。


あたしが欲しいものを、あの人は持っていないし、
あの人の欲しがったものを、あたしは決して与えない。
そりゃそうでしょ、自由よ。

11

すべては自己満足、とはいいながら、
自分を喜ばせるのは案外難しい。

ちょっとした幸せに気付くこと、それを誰かと分かち合うこと、
それらだって決して普通のことではなく、無意識ではなく、
努めて とか、頑張って とは、ちょっと違うかもしれないけど、
能動的に、求めていった結果なんだろう。


あたしは飽き性で、何にしても継続が苦手で。
ネットと出会ってから日記(ブログ)というものは何度も作っては消し作っては消し、
いろいろな“登録”をしてみるけど、ひとつのところに留まったことはない。
リアルでも、習い事を最後までやり遂げたことはないし、
何処かに所属することも、自分の意志の有る無しに関係なく、辞めてきている。
自分の決定であっても、後ろ髪ひかれる思いは何度もあるんだ。
いつも、すぐ切り替えて「はいっ次ー」ってやってきたわけじゃない。勿論。
それでも懲りずに、ハジメマシテサヨウナラを繰り返す。

いいかげん、治したいところだけど、
一生変わんないだろうな~って気もする。
実際、このBlogも、生活も、新しく始めたもんだし。

何がしたいんだろう、って、自分でつっこむよ。
いろいろなSNSに囲まれて、いろいろな人間の一部を観察して、
いろいろな服を手に取り、音楽を聴いて、何もせずひきこもって、
多くを知った気になったり、無知に絶望したりする、
この“あと”は何になるんだろうって、思う。

同年代の人たちが、人生を謳歌しているというなら、
それを羨ましい、と言うより、それが普通だ、と思う。
実際、みんながみんなYesではないだろうし。
若くても、かなり年上でも、結局そう。
満足っていうと、少数派かもしれないし、
大概のひとがある程度は当てはまるのかもしれない。

「いつまでも子どもでいないで」っていう親心。
それはわかるけど、どうしてみんなのいう大人という生き物っぽくならなければならないの?
大人っぽい子どもがかわいそうっていう人は、子どもっぽい大人ももちろんかわいそう?
こういう思考が“屁理屈”なんだろうし、
よもや自分がガキであることを正当化してるように見えるなら、
それは心外だ。
自分の中で、様々な心情が分裂してる自覚はあるから。
あたしがあたしに失笑してる時もあるんだよ。

何を始めても、何を好きになっても、
「これが最高値だ」って思うことはない。
一瞬の安堵感の後には、いつも虚無感が待っている。
自分を大切に と言われると、誰かを大切にしなければという使命感が出てくる。
自分で自分をHappyに と言われると、繰り返してきた出会いと別れの中に探すけど、どんな姿かわからないから、見つけられない。


誰の為にこういうこと書くかっていうと、間違いなく自分の為なんだけど。
どこかで、「続けてよかった」って思うものに出遭うものかしら?